今年も早いものでもう、2カ月位になった。私の近所の公園では、紅葉が散り初め多摩センターでは、もうクリスマスツリーが、建てられていた。集団自衛権、安保関連法案、秘密保護法案やTPPなど、最近私たち国民にとって、この政策はどうなんだろうと考えさせられる事が多い。戦後70周年で、皮肉にも憲法の9条が破られてしまった事は残念でした。次の選挙の時に憲法を正しく解釈し、立憲民主主義に相応しい。総理が選ばれる事、平和であるように祈ります。さて、今日は主・イエス様にお祈りをして、サレジオ会を創設したドン・ボスコと、ミヒャエル・エンデさんがかいた、モモという物語から、罪と永遠の命について、書こうと思います。1815年イタリアのピエモンテの農家の子として、ヨハネ・ボスコは、この世に生をうける。彼がたった2歳の頃、父が他界したせいもあり、ヨハネ・ボスコ(ドン・ボスコ)は、幼少期に極貧の中で過ごす経験をした。しかし、貧しいながら勤勉であったであろう、ドン・ボスコは、16歳でトリノの神学校に入学しているが貧しかったので、皆から、服や靴を分け与えられたのだという。きっとこの時に、ドン・ボスコを通して私たちは、聖書の箇所で、思い悩むな、食べ物の事や衣服よりもあなたがたの方が神にとって大事である。また栄華を極めたソロモンでさえ、野のゆり程着飾ってはいなかったのだ、そしてこの野のユリが働きもせず、紡ぎもしないという御言葉と、1アサリオンで売られている2羽の雀の1羽でさえも、あなた方の父がお許しならならければ地に落ちる事はないと言っている聖書の箇所が思い浮かぶのではないでしょうか。ドンボスコは確かに、野のユリのごとく、自分で作った服ではなく、学費も自分の力でもなくただただ、神の恵みによってすべてがあたえられました。なぜ、彼が神を信頼できたのかというならば、神学校へはいる5年前に神からの啓示を受けて、貧しい者達を助け、教育する事こそが自分の職務であると確信し、生涯その自分の与えられた使命に忠実でありつづけたと言います。1859年にドンボスコは22人の仲間と共にサレジオ会を作る。この修道会は、聖フランシス・デ・サレスの名を取ったと言われており、1888年ころには、南北アメリカに26、ヨーロッパに38となり、会員数も768人にまで増え、現在世界中に広まっていった。上述した事から、ドン・ボスコは、少年を守護する聖者と言われている。また、彼は、手持ちの食べ物を何倍に増やしたり、神の奇跡を起こした人としても有名でした。さて、今度は、モモという物語の2つばかり抜粋して話を進めて行きます。この小説は、聖書的な観点からいっても中々良い物語で私自身もはっとさせられる事考えさせられる事が多々ある童話本です。その中で、おおぜいの為の物語とひとりだけの物語という章があります。簡単にいうと女帝が戦争に勝ち、敗北した王に金魚を献上するように要請するのですが、王は、この女王の欲深い所に目をつけ、偽りの金魚を贈呈します。その魚の名はクジラでした。そして、王は、そのクジラは、大きくなると金魚のような金になると教え女王をだます物語で、察しの良い方は、もうおわかりだと思いますが、女王は、クジラが大きくなればなるほど、欲深くなりクジラの為の費用がかさみ、またそのお金になるクジラの事だけを考えるようになってしまい、最後敗北した王に負け、最後女王はクジラの水槽に身を投げて、死んだという話です。簡単に人を信じていいのか?また、罪とは何たる事なのかをよく表しています。人は、自分の欲望やこの世を愛しすぎる時に自分という存在を知ってしまう。与えるのではなく、大きな貪りは、聖書のモーセの10戒でも罪として定められています。それが例えば、教会を大きくしたり、利益になる事に関してや一般の道徳や法律に触れない事柄でさえも聖書では、貪ってはならないと言います。その理由は、この世に未練が残り、神の命令よりも、自分の大切なものが生まれてしまうからです。この事について、ひとりだけのための物語で、ミヒャエル・エンデさんは、このような物語をつくり、私たちに永遠の命に至る方法を示唆しているように感じます。今度の物語は、この2つの物語を私が紹介しましたが、この童話の物語をかたった観光ガイドのジジとモモの事をファンタジックに話した物語で、モモがガラスの色とりどりの城に住む姫さまで、永遠の命をもっており、それというのも魔法の鏡によってすべての影を自分の物にできるのだと言います。ただ、なぜか自分の姿をその魔法の鏡で見ると、永遠の命を失うという事です。そして、姫は永遠の命を失ってもいいから、どこにいるかわからない、王に会う為に自分が、永遠の命を失ってしまうと言われていた、魔法の鏡に自分を映して影を作り、鏡と自分の影を下界に送ります。さて、王子はジジの事で、明日の国の王子でしたが、王子は悪い妖精に騙され、悪い妖精と暮らしていました。そして、王子には、1年の間空に漂う銀の鏡を見ないようにいいます。そうすると自分が何者であるか忘れ今日の国に行き、貧しく哀れな生活をするようになると言います。しかし、あるとき王子は、雨の変わりに流した姫の涙により、天を見上げ、鏡を見てしまいます。すると、悪い妖精が、醜い者で、モモ姫こそ本当に愛する人だと気づくという物語です。その後、モモ姫とジジは、今日の国で互いに貧しかったのですが、出会い最後また、明日の国へ行くという物語です。ここで、ミヒャエル・エンデさんが私の憶測ですが、言いたかった事は、きっと姫のように、自分の我欲や愛肉欲に捕らわれると、自分を知ってしまうのだと言いたいのだと思います。昔、創世記の頃、アダムとエバは、楽園で暮らしていたが、サタンのにそそのかそれ、神が食べてはならないという、善悪の知識の木を食べてから、自分が神と同じように、恥ずかしいとか愛するとか感情が芽生えた事から、罪が始まったのですが、きっと知るという事は本来の聖書の神の書いている律法や掟により、私たちは知っていて、罪や自己を知らないものへと変えられるのではないかと思います。誤った罪や欲望は、私たちを神から遠ざけ、この世へ愛が、この世を今日の国、今の世がその人にとってのすべてとなってしまう。この事は、今の社会生きてる人の中に会社や家族など、自分の事柄以外に対してだけの執着が強くなるが故に、社会の為に貢献したり、他人の為に与えるという事や聖書の主・イエス様を信じたり、善を行うといった、ミヒャエル・エンデさんが紹介したであろう、明日の国=天国を見いだせなくなってしまっている事に私は多々気づかされます。その原因は、日々家族や自分の生活の事以外や義や平和に対して、無関心でいる事そして、日々与えられている感謝の気持ちを忘れてしまう原因は、自分の為にだけ貪る罪こそが、今日のこの現実だけを自分の現実として、捕らえる罪の始まりだからです。人間には、肉体と霊があり、神は霊であります。だから私たちは、天国があるといえるのです。明日の国を天国と仮定するならば、この世の中を貪るようなこの世の欲望や執着を捨て、神に帰依する時私達の心の中に神の国が実現するのではないでしょうか。大切な事は、今日の世も現実だけども、明日の国を見る視点も大切な事なのです。今日は、主・イエス様に祈り、与えられている事、与えるという事の大切さと、貪りについてお話しをしました。主・イエス様の十字架は、偽の今日の国の現実に気づかせ、永遠無限不変の明日の国、将来私達が住むであろう天国へと私達をいざないます。
与えるという事と貪るという事
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